本能寺について
〜本能寺の縁起〜
本能寺は景勝の地京都鴨川のほとりに法華宗の法灯を掲げ続けています。
しかし、本能寺が日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山であることは意外と知られていません。
本能寺は日隆聖人を御開山と仰ぎ『法華経』の根本義と日蓮大聖人の真意を説き明かし、お題目を唱えて信じ行ず大霊場です。
日蓮大聖人の教えの真意は『「法華経」の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の「南無妙法蓮華経」に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない』という教えです。
人々に「南無妙法蓮華経」を信奉させ、口に唱えさせることが日蓮大聖人の生涯の念願でした。
御開山の日隆聖人は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺(現在の妙顕寺)の綱紀の粛清に務めたが志を遂げられず同寺を去りました。
そして、油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めました。
本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用しています。
その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺・本能寺という寺名にしました。
また、現在「能」という字をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものです。
上杉本の「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれています。
本能寺の歴史は、取りも直さず建立、再建復興の歴史です。
そのような受難の歴史の中でも本能寺は、庶民信仰の中核として大きな働きを果たしてきました。
第1の建立 | |
---|---|
1415年 | 妙本寺の綱紀の粛清に努めていた日隆聖人が、その志を遂げられず妙本寺を去り、油小路高辻と五条坊門の間の地に寺門を開き本応寺と号しました。 |
1418年 | 月明上人の命により妙本寺の教徒によって破却。 |
第2の建立 | |
1429年 | 小袖屋宗句の援助により内野(現在の西陣あたり)に本応寺を再建 |
第3の建立 | |
1433年 | 如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立 |
1536年 | 天文法乱にて延暦寺の焼き討ちに遭う |
第4の建立 | |
1545年 | 日承聖人(第12代貫首)が四条西洞院に建立 |
1582年 | 本能寺の変にて焼失。信長公自害 |
第5の建立 | |
1592年 | 日衍聖人(第14代貫首)により再建、秀吉の命にて現在地に移転 |
1788年 | 天明大火で焼失 |
第6の建立 | |
1840年 | 日恩聖人(第77代貫首)再建 |
1840年 | 蛤御門の変にて焼失 |
第7の建立 | |
1928年 | 現在の本堂再建 |
住職からのご挨拶
〜大本山本能寺第140世貫首〜
大本山本能寺第140世貫首 桃井日英でございます。
当ホームページをご覧いただき、 まことにありがとうございます。
当ホームページをご覧いただき、
この経文の如く本能寺に訪れた多くの皆様が
仏様とふれあい歓んでお参りいただけたらと
願っております。
本能寺は門祖日隆聖人によって創建されて以来約600年を数える
「本門八品上行所伝本因下種之南無妙法蓮華経」を
聞信口唱する法華宗(本門流)の大本山であります。
山林を去り市中にあって多くの人々に
「南無妙法蓮華経」をお伝えするために創建当時より
町の中心地に位置しております。
このためしばしば災禍をこうむり地を変えること4度、
堂宇を再興すること7度におよび、
今日に至っております。
法華経の方便品に「言辞柔軟 悦可衆心」
(佛の言葉は柔らかく、人々の心を歓ばせる)と
説かれております。
大本山本能寺第140世貫首 桃井日英
織田信長と本能寺
〜本能寺の歴史〜
日承上人と信長
織田信長といえば中世戦国の世の人で人気のある武将です。 信長は、早くから天皇の日常生活の資金が不十分であったのを知っていて、何かさせてもらおうといつも思っていました。
また宗教弾圧でも有名ですが、そればかりではありません。
例えば伊勢大神宮の式年宮(二十年毎に新しく造営すること)や内裏御所(京都皇居)の御修理には他の武将や豪商に率先して奉仕をしています。
この信長の影の力となり彼を薫陶し、勤王の志を起こさせたのは当時の本能寺の住職だった日承上人でした。
信長は上洛の度に本能寺に馬をとどめ、親しく上人の教化を受けることを無上の喜びとしていました。
戦国の世とはいえ民の心の奥に秘められたかすかな望みが、信長によって勤王の志に盛り上げられ民の心の支えとなり、信長自身にもそれが施政の指針をあたえることになったと思われます。
信長の宗教改革
次に信長の宗教政策については色々いわれますが、戦国以来諸大寺が、土地と兵力をたくわえ大名と並ぶ力を持っていたことをご存じでしょうか。
その大寺は為政者の命令に従わないこともあったのです。
そこで信長は、比叡山を焼き払い、一向宗徒を征服し、奈良の大寺を撃ち、高野山に攻め入るなどの一面を現すこととなるのです。
しかし、彼の本当の意志は仏教本来の姿に立ち戻りなさいという、腐敗した仏教界への警鐘だったのではないでしょうか。
この考え方も日承上人より伝承した信念ではなかったかと思われます。
それほどの影響を与えた日承上人、また当時の本能寺は一体どんなお寺だったのでしょう。
信長と本能寺
本能寺の変を含めて、信長ははっきり記録に残っているだけでも合計4回本能寺に滞在しました。本能寺滞在の理由は3つあるといわれています。
理由1 | 信長はつねづね天皇家に近づきたいと考えていたようです。 信長の時代に本能寺で一番偉いお坊さんだった日承上人(文亀元年(1501年)〜天正七年(1579年)は天皇の親戚でした。 そこで信長は、本能寺に滞在し日承上人に仏教の教えをうけるとともに、天皇家とのつながりを築こうと考えていました。 この方のつながりで今でも本能寺の一番偉いお坊さんは菊の御紋章をつけられています。 |
---|---|
理由2 | 「本能寺の変」当時の本能寺は今よりもっと大きく広く、またお寺の周りを高い塀と深い堀で囲い、とても安全なつくりになっていました。 信長は、そんな立派で安全な本能寺が気に入っていたようです。 |
理由3 | 本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者さんが居たため。 種子島に1543年に鉄砲が伝わります。 このことから本能寺に依頼すると鉄砲や火薬を手に入れるのが楽だったようです。 信長はそこに本能寺の利用価値を見い出し、境内地の安堵(禁制朱印状)を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易の手助けを促したようです。 それも信長が本能寺に滞在する理由のひとつといわれています。 |
信長御廟 | 信長の自刃後、三男信孝の命によって建てられました。 |
---|---|
織田信長 肖像画 | 信長公の肖像画としては、一般に流布している画像と異なり、鼻下に髭がないめずらしい面貌をなしています。 |
織田信長 禁制朱印状 | 文末には天下布武の馬蹄形朱印が押捺されています。 |